前回から大島さん、石原さん、阿蘇さんの3名で、
皆さまからいただいたご質問にお答えいただいています。
まだ、前編をご覧になっていない方はコチラからご覧ください。
それでは、後編の記事もお楽しみください。
「とほかみえみため」を宗教やおまじないと一線を分かちたい私がいます。
その根拠をはっきりしたい。
宗教というものと何が違っているのかが自分でもよく区別できていないけど、いろいろ楽しいので唱えている感じです。
大島:ということです。
宗教やおまじないと、この「とほかみえみため」の違いは何かということですが、石原さんいかがでしょうか。
石原:一つは、宗教は教祖の色が入っているということですよね。
創始者の色が入っているということは、創始者が体験して、例えば「こういうお題目を唱えたら、すぐに病気が治った」とか、「このおまじない唱えたら病気治った」みたいな所があって、いろんな宗教で、それぞれ唱える言葉が決まっているわけです。
そこには、その人の個性が盛り込まれているので、まずその個性を信じろということでもあると思います。
われわれの違いっていうのは、そうではなくて、全部をちゃんと認めるという所があると思うんですよね。
その人の考えもあるし、今は科学という視点もあるし、あと、日々生きていく中では実務も当然あるわけで。
例えば接客とか販売とかしている方の場合だったら、「唱えれば売れるだろう」みたいなことよりも、ちゃんと唱えるんだけど、一方で「この商品に関しては、こういうところがとてもいいんです」とか、「こういう悩みに対してすごくいいんです」とか、そういう一つの言葉を丁寧にちゃんと説明として言えたほうが売れるというのは、当然ありますよね。
そのように、全体を認めることが大事だと考えています。
私たちは、よく網羅って言いますけど、網羅があるのか、それとも一部に対する偏った信じ込みがあるのかが、違うところだと思うんですよね。
阿蘇:宗教だと信仰っていうことで、「信じる者は救われる」とかそういう世界になりがちです。
我々の「とほかみえみため」の違いですが、ご先祖っていうのは100%皆さんいますよね。
人類共通の生命の仕組みとして、古来から伝えられてきたものがあって、こうすればこうなるということが科学的な視点でも捉えることができるというところがあります。
今の時代は、見えない世界を扱うとすぐに「宗教」となりがちですが、古代から伝承されている祭祀は、現実世界で役に立たないと淘汰されてしまう。
今まで、宗教は多くの人の心を支えていくというセーフティネット的な役割があったと言えますが、宮中祭祀は国の安泰のために誰がやってもそうなるというシビアな客観性の元でいのちの仕組みを網羅して最高のものが伝承されてきたといえるのではないかと思います。
大島:宗教の場合、信仰心っていうのがまずベースにあって、それがないと何も始まらない部分があります。
けれど、「とほかみえみため」は別に信じなくていいんですよね。
もう機械的に唱えるところから始めていただいていいんです。
先ほど、科学的にっていうお話がありましたけど、実験のような、「これ、本当かな?嘘かな?」っていう、そういう中立の立場から試していただいても全然効果出ますので、その辺りが宗教と違うかなと。
あと、おまじないっていうのは、いろいろな種類がありますけれど、霊物とつながるようなおまじないが伝わっていることが多いように思います。
そういうおまじないで、確かに効果が高いものも中には残っていたりしますが、反転することが多いんですよね。
一方で「とほかみえみため」は、神の階層につながっていくものなので、そういう反転作用がないというのがありますよね。
ですから、その辺りは最初は疑問があっていいと思うんですよね。
そして、続けていく中で「本当に自分の生活が豊かになるかな」とか、「心が楽になるかな」とか、そういうのを自分で試してみてくださいという感じですね、スタンスとしては。
それが本当に役に立つのであれば、続けてくださいという、気楽にやっていただくとより効果も出やすいのかなっていう気はしますね。
石原:やっぱり「自由になるためにやっている」というところがちゃんとあるかっていうところですね。
あと、自在になれるかっていうところ。
自由自在になれるかっていうところがポイントだと感じますね。
阿蘇:あと我々や「とほかみえみため」には、教義とか戒律とかはないわけですもんね。
大島:日本の神道自体に、戒律ってないんですよね。
確かに世が乱れたときに、戒律ってできやすいんです。
だから仏教でも、実は最初の頃って戒律は少なかったんですよね。
それを破戒する人が出てきて、その度に戒律が増えていって、最後はもう膨大な戒律ができたっていう歴史がありますよね。
神道には、日本人のおおらかさと言いますか、善悪も厳しく判断しないというところもあるんでしょうね。
それでは、次のご質問です。
先ほど、親がとほかみ本を見て、怪しいからこんなこと(「とほかみえみため」、祓いなど)をやらないでと言われました。
家族に心配されるのは僕もつらいです。
ただ、僕はとほかみの波には乗り続けたいと思っています。
家族の心配にはどのように向き合っていけば良いでしょうか。
アドバイスがあれば教えていただきたいです。
大島:というご質問ですが、阿蘇さんアドバイスありますでしょうか。
阿蘇:家族や周りの人と温度差がある場合に、力強く説得すればするほど、「大丈夫かな?」とか心配されたり、反対されたりするパターンもありますよね。
でも、自分の祈りとして、親とかご先祖に対して働きかけているので、続けていくと、結局、自分だけじゃなくて親にも、良いことが起こってくるんですよね。
そして、公っていう立場に立つと、誰も邪魔できないっていうのがあるので、無理やり説得する必要はないとは思います。
ご自身の中で確信持って「とほかみえみため」を唱えていくと、必ず親にとっても、自分にとっても、ご先祖にとっても、公にとっても良いことになるので、そこはブレないでご自身で続けていただければいいと思います。
場合によっては、そのうち親の態度も変わるかもしれないし、変わらなくても全然、自分は問題ないくらいの心持ちで、ずっと関わっていただければ全然問題ないんじゃないかなと思います。
大島:「とほかみえみため」を心の中で唱えている分には一切悟られないですし、「あの怪しいの、まだ続けているの?」って言われたら、「いや別にやってないよ」って言えばいいんじゃないですかね。
安心していただきたいのであれば、それは別に悪いことじゃないですよね。
だから、その辺りは自分のできる形で、自分がまずやってみる。
それで自分自身が幸せになったり、あるいはあり方が変わったりしたら、「この子、随分成長したな」って思っていただけると思うんですよね。
その段階で、「いや実は、とほかみをやっていたんだよ」って言うと、また伝わり方が違うかもしれないですよね。
石原:それと結局、自分の納得が大事と考えると、親と争う必要はなくて、自分は毅然と心の中で唱え続けて、あるところで、今のお話にあるみたいに、相手が価値を認めてくれる土俵でちょっと結果を出してあげるっていうか、それで結果が出ることを示してあげる。
現実世界を生きているわけなので、仕事をしている人だったら、やっぱり仕事が自分が納得できて、親にも報告できるような良い結果が出たりとか、学生さんであれば、学業でいい結果が出たりとかっていうことですね。
その結果で語るっていうのも、ある意味では大事なのかなと思いますね。
大島:心の中は自由ですからね。
「とほかみえみため」を自由に唱えていただいて、まずは自分が平安を得るとか、そういうところから始めてみるといいかなと思います。
ということで、今回は阿蘇さん、石原さんとご質問にお答えしてまいりました。
今後も、この質疑応答は続けていきたいと思っておりますので、ぜひ、聞いてみたいこと、疑問に思っていることを、コメント欄に書いていただけましたら、皆さんに共有できるようなご質問はここで取り上げさせていただきたいと思います。
ぜひ、今後もよろしくお願いします。
本日もありがとうございました。
阿蘇:ありがとうございました。
大島:ありがとうございました。
大島:講師3人で皆さまからいただいたご質問にお答えしています。
次のご質問も、前回までのご質問とすごく関連していると思います。