【エクレル講師座談会 vol.8】皆さんからのご質問にお答えしました(後編)

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前回から大島さん、石原さん、阿蘇さんの3名で、
皆さまからいただいたご質問にお答えいただいています。

まだ、前編をご覧になっていない方はコチラからご覧ください。

それでは、後編の記事もお楽しみください。

大島:講師3人で皆さまからいただいたご質問にお答えしています。
次のご質問も、前回までのご質問とすごく関連していると思います。

「とほかみえみため」を宗教やおまじないと一線を分かちたい私がいます。
その根拠をはっきりしたい。
宗教というものと何が違っているのかが自分でもよく区別できていないけど、いろいろ楽しいので唱えている感じです。

大島:ということです。
宗教やおまじないと、この「とほかみえみため」の違いは何かということですが、石原さんいかがでしょうか。

石原:一つは、宗教は教祖の色が入っているということですよね。
創始者の色が入っているということは、創始者が体験して、例えば「こういうお題目を唱えたら、すぐに病気が治った」とか、「このおまじない唱えたら病気治った」みたいな所があって、いろんな宗教で、それぞれ唱える言葉が決まっているわけです。
そこには、その人の個性が盛り込まれているので、まずその個性を信じろということでもあると思います。
われわれの違いっていうのは、そうではなくて、全部をちゃんと認めるという所があると思うんですよね。
その人の考えもあるし、今は科学という視点もあるし、あと、日々生きていく中では実務も当然あるわけで。
例えば接客とか販売とかしている方の場合だったら、「唱えれば売れるだろう」みたいなことよりも、ちゃんと唱えるんだけど、一方で「この商品に関しては、こういうところがとてもいいんです」とか、「こういう悩みに対してすごくいいんです」とか、そういう一つの言葉を丁寧にちゃんと説明として言えたほうが売れるというのは、当然ありますよね。
そのように、全体を認めることが大事だと考えています。
私たちは、よく網羅って言いますけど、網羅があるのか、それとも一部に対する偏った信じ込みがあるのかが、違うところだと思うんですよね。

阿蘇:宗教だと信仰っていうことで、「信じる者は救われる」とかそういう世界になりがちです。
我々の「とほかみえみため」の違いですが、ご先祖っていうのは100%皆さんいますよね。
人類共通の生命の仕組みとして、古来から伝えられてきたものがあって、こうすればこうなるということが科学的な視点でも捉えることができるというところがあります。
今の時代は、見えない世界を扱うとすぐに「宗教」となりがちですが、古代から伝承されている祭祀は、現実世界で役に立たないと淘汰されてしまう。
今まで、宗教は多くの人の心を支えていくというセーフティネット的な役割があったと言えますが、宮中祭祀は国の安泰のために誰がやってもそうなるというシビアな客観性の元でいのちの仕組みを網羅して最高のものが伝承されてきたといえるのではないかと思います。

大島:宗教の場合、信仰心っていうのがまずベースにあって、それがないと何も始まらない部分があります。
けれど、「とほかみえみため」は別に信じなくていいんですよね。
もう機械的に唱えるところから始めていただいていいんです。
先ほど、科学的にっていうお話がありましたけど、実験のような、「これ、本当かな?嘘かな?」っていう、そういう中立の立場から試していただいても全然効果出ますので、その辺りが宗教と違うかなと。
あと、おまじないっていうのは、いろいろな種類がありますけれど、霊物とつながるようなおまじないが伝わっていることが多いように思います。
そういうおまじないで、確かに効果が高いものも中には残っていたりしますが、反転することが多いんですよね。
一方で「とほかみえみため」は、神の階層につながっていくものなので、そういう反転作用がないというのがありますよね。
ですから、その辺りは最初は疑問があっていいと思うんですよね。
そして、続けていく中で「本当に自分の生活が豊かになるかな」とか、「心が楽になるかな」とか、そういうのを自分で試してみてくださいという感じですね、スタンスとしては。
それが本当に役に立つのであれば、続けてくださいという、気楽にやっていただくとより効果も出やすいのかなっていう気はしますね。

石原:やっぱり「自由になるためにやっている」というところがちゃんとあるかっていうところですね。
あと、自在になれるかっていうところ。
自由自在になれるかっていうところがポイントだと感じますね。

阿蘇:あと我々や「とほかみえみため」には、教義とか戒律とかはないわけですもんね。

大島:日本の神道自体に、戒律ってないんですよね。
確かに世が乱れたときに、戒律ってできやすいんです。
だから仏教でも、実は最初の頃って戒律は少なかったんですよね。
それを破戒する人が出てきて、その度に戒律が増えていって、最後はもう膨大な戒律ができたっていう歴史がありますよね。
神道には、日本人のおおらかさと言いますか、善悪も厳しく判断しないというところもあるんでしょうね。
それでは、次のご質問です。

先ほど、親がとほかみ本を見て、怪しいからこんなこと(「とほかみえみため」、祓いなど)をやらないでと言われました。
家族に心配されるのは僕もつらいです。
ただ、僕はとほかみの波には乗り続けたいと思っています。
家族の心配にはどのように向き合っていけば良いでしょうか。
アドバイスがあれば教えていただきたいです。

大島:というご質問ですが、阿蘇さんアドバイスありますでしょうか。

阿蘇:家族や周りの人と温度差がある場合に、力強く説得すればするほど、「大丈夫かな?」とか心配されたり、反対されたりするパターンもありますよね。
でも、自分の祈りとして、親とかご先祖に対して働きかけているので、続けていくと、結局、自分だけじゃなくて親にも、良いことが起こってくるんですよね。
そして、公っていう立場に立つと、誰も邪魔できないっていうのがあるので、無理やり説得する必要はないとは思います。
ご自身の中で確信持って「とほかみえみため」を唱えていくと、必ず親にとっても、自分にとっても、ご先祖にとっても、公にとっても良いことになるので、そこはブレないでご自身で続けていただければいいと思います。
場合によっては、そのうち親の態度も変わるかもしれないし、変わらなくても全然、自分は問題ないくらいの心持ちで、ずっと関わっていただければ全然問題ないんじゃないかなと思います。

大島:「とほかみえみため」を心の中で唱えている分には一切悟られないですし、「あの怪しいの、まだ続けているの?」って言われたら、「いや別にやってないよ」って言えばいいんじゃないですかね。
安心していただきたいのであれば、それは別に悪いことじゃないですよね。
だから、その辺りは自分のできる形で、自分がまずやってみる。
それで自分自身が幸せになったり、あるいはあり方が変わったりしたら、「この子、随分成長したな」って思っていただけると思うんですよね。
その段階で、「いや実は、とほかみをやっていたんだよ」って言うと、また伝わり方が違うかもしれないですよね。

石原:それと結局、自分の納得が大事と考えると、親と争う必要はなくて、自分は毅然と心の中で唱え続けて、あるところで、今のお話にあるみたいに、相手が価値を認めてくれる土俵でちょっと結果を出してあげるっていうか、それで結果が出ることを示してあげる。
現実世界を生きているわけなので、仕事をしている人だったら、やっぱり仕事が自分が納得できて、親にも報告できるような良い結果が出たりとか、学生さんであれば、学業でいい結果が出たりとかっていうことですね。
その結果で語るっていうのも、ある意味では大事なのかなと思いますね。

大島:心の中は自由ですからね。
「とほかみえみため」を自由に唱えていただいて、まずは自分が平安を得るとか、そういうところから始めてみるといいかなと思います。
ということで、今回は阿蘇さん、石原さんとご質問にお答えしてまいりました。
今後も、この質疑応答は続けていきたいと思っておりますので、ぜひ、聞いてみたいこと、疑問に思っていることを、コメント欄に書いていただけましたら、皆さんに共有できるようなご質問はここで取り上げさせていただきたいと思います。
ぜひ、今後もよろしくお願いします。
本日もありがとうございました。

阿蘇:ありがとうございました。

大島:ありがとうございました。


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5 件のコメント

  • 良い質問が二つ、そして回答がすばらしい。感動しました。私にとって とほかみえみためは、石原先生がおっしゃる<洗剤>としての効果が絶大で、正直少し気落ちしてしまっていますが、なんとか乗り越えていってもいますので、引き続き唱え続けていきます。

  • 私は子供の頃から不思議だったのは宗教は何故争うのか?という事でした。神様や仏様、いろいろな宗教に其々の神様がいて、皆んな信仰する人を幸せにしてくれるというのに、そんな大きな思いやりや愛があり、全てを生み出してくれるというのに争いあう事がとても不思議で、本当の神様じゃ無いんじゃ無いかな等と思ったものでした。小学6年になる頃、いろいろな、特に、ギリシャ、日本、中国、アステカ、インカと言った文明の神話を読み漁りました。父が神道を基本としていましたので、日本神話はことに色々読みました。そして中学卒業の頃、この世界の、特にギリシャ、日本、中国の神話がとても似ていることに驚きました。そこから、歴史が好きになり、哲学につながる数学、特に幾何学、古文、漢文などに興味を持ち、又、宗教が何故相争うのかを考えた時、側と思ったのは本当は日本の神話が言う様に神様はとてもたくさんいて、木々の一つ一つ、山々、海、湖という様にそこかしこに神様がおられて、その土地土地のみんなを守ってくれてると思う方が楽しく、信じられると思う様になりましたね。そして、キリスト教も、仏教も本当は一つの神様を違う角度で見てるに違いない。と思う様になったのです。そんな風に考える様になってしばらく年を経て、ある時、知人から、神は意志ある宇宙のエネルギーだという説をドイツの学者?が書いたという本を見せられました。それを見た時、衝撃を受けました。書かれていることはとても説得力があり、全ての宗教はその大きな宇宙の意志をもったエネルギーをだしている円の周りを切り取っているだけだという様なことが書いてありました。元をたどると同じ中心に行き着くという様な内容だった様に記憶しております。不確かですが…………結局、自分の見た、または理解したものしか見ていないのに、自分の見た神が本物と言い張るのです。縁の淵が違うだけで見る中心が同じことに気づかず自分が正しく本物を捉えていると言い張る事で争う様になったのかなぁと思いましたね。大人になってよくよく観点を変えると、その宗教がいつのまにか信徒の獲得を目指して、より大きく発展していることに気づきました。そして、開祖を頂点とする組織が生まれていました。これが宗教というものになったのだと理解するといつしか、私の中で、神は確かに実在されるが、一人、一人の意志との繋がりであって組織など必要ないものと思う様になっていました。よく何を信じているのどこに属しているのと聞かれますが、神を信じているし、信仰心はあるけど組織は関係ないから、どこの神社やお寺、教会に行っても、お詣りするしその神様の先の神様、宇宙の意志あるエネルギーである神様にご挨拶します。その意味で、白川の御法は私に新しい理解と心地よさをいただいております。母の胎内で揺られていた時の様な暖かさを感じてしまいます。変でしょうね。でも、これが正直な気持ちです。何時も様々な教えに感謝いたします。

  • 目に見えない世界を語ると必ず宗教と思われ、あまり良くない印象を持たれてしまいがちですが、先生方の回答のどれもが、その疑問(不安?)を解消してくれました。別に信じなくてもいい、ところに軽やかさを感じました。また、周囲を心配させない配慮もしてくださってありがたいです。「誰がやってもそうなるというシビアな客観性の元でいのちの仕組みを網羅して最高のものが伝承されてきた」ここ大事ですね。メモしておきます。ありがとうございました。とほかみえみため

  • お三方がしている会話がすごく心地よいです。どんな悩みもとほかみえみためで解き放たれるなと確信します。
    いつもありがとうございます。

  • いつもありがとうございます。

    白川神道は宗教ではないと言う中に石原さんが戒律が無いと言われていますが、神令とか大祓いはモーセの十戒に似た所があると思うのですが。
    また稲作はインドから伝わったと言われていますが、白川神道は大陸が始まりてすか?