好評をいただいているエクレル講師陣による座談会の第4弾をお届けします。
今回は大島さん、石原さん、阿蘇さんの3名で、
エクレルの読者様から寄せられたご質問にお答えいただきました。
「とほかみえみため」を唱えていたら、自分の意志とは逆の出来事が起こりました。これは、どうすればいいのでしょうか?
大島:というご質問をいただきました。
ずばり阿蘇さん、どうしたらいいでしょうか。
阿蘇:そうですね。
その自分の意志だと思っていたことを、少し疑う必要があるのかなと思うんですね。
意外と、自分がこうしたいと思っていたことって、そんなに、本来は自分が進むべき道じゃなかったりしますから。
一見、辛いようなこともあるかもしれませんけど、今まで蓋をしていたというか、ちょっと無理していたところがもしあったとしたら、そういったものがぱっと祓いの効果によって出てきてしまうことがあります。
それで、自分が思っていたこととは別の現象が起こるということはよくありますね。
大島:そうですね。
阿蘇:祓いとか「とほかみえみため」に取り組んでいて、いきなり自分の思いが叶うっていうのではなくて、過程としては、逆に思えるものも出てくるというのは、よくあるので、安心していただければなと思いますね。
大島:そうですね。
その願いっていうのが、どの階層から来ているかが大切になってくると思います。
いわゆる自我と言われる層で、世の中や目の前の世界を、自分の思い通りにしようとすることが、意外と苦しみの原因だったりもするわけなんです。
阿蘇さんがおっしゃっているとおり、それが本当に自分の願いなのかということもありますよね。
だから、例えば「お金持ちになりたい」って多くの人が、思っていると思うんですけれど、「じゃあ、お金持ちになったらどうするんですか?それで幸せなんですか?」って聞くと、「いや別に。特にないんだけど、ただなんとなく、お金があったら今より幸せに暮らせるかな」というくらいの。
どちらかというと、社会とか周りの人たちに刷り込まれた観念の中で、「なんとなくお金欲しいぞ」くらいの話だったりするじゃないですか。
そういうときに「とほかみえみため」を唱えたからといって、お金入ってくるかというと、そうもいかない部分があるとは思います。
この辺り、石原さんいかがでしょうか。
自分の意志と逆な出来事が起こった時、どうしたらいいですかね。
石原:そうですね。
この世界に入って一番面白いのは、自分の意志を超えたところに連れて行ってもらえる所だと感じています。
我々がこの前、『とほかみアカデミー』という新しい、分かりやすい動画プログラムを作りました。
それをご購入いただいた方へのお礼の動画を撮ったときに、改めて講師同士で話していたら、なんか思わないところでここにいる、この仕事に巡り会っていると講師みんなが思っていました。
自分で来ようと思ったわけじゃないけれど、なぜかこういうところに巡り会えているんです。
「とほかみえみため」という世界と巡り会えて、なぜか今、ここにいられるということは、願望を超えているといいますか。
ジャンプする前に、予測できれいに祓い清められるようなステージがあるのだと思います。
例えば、阿蘇さんだったら前の仕事をいきなり喧嘩してクビになっていたり、私もその前の事業が上手く行かなかったりですね。
なので、ちょっと予想を超えた、なんか、あれ?と思うようなことがあって、そこからばーっと道が拓けるような印象があります。
大島:そうですね。
石原:やはり新しい展開にいくとき、最初、門が現れるなっていう感じがするんですよね。
その門の前で何か起こるというか、門番がこの先には行くなという感じで悪いことを起こしたり。
ですが、そこで「とほかみえみため」を揺るがず唱えると、急に門がばっと開いて、そこからは自分の知らないような新天地が開けていくっていうことは、実感として感じますよね。
大島:なるほどですね。
先ほど、願いにも階層があるというお話をさせていただきましたけど、普段「自分」だと思っているいわゆる自我的なものって、1秒先も分からないじゃないですか。
それで、1秒先も分からないにも関わらず、「こっちの方向に行ったら幸せになれるんじゃないかな」って、単純に空想しているだけなんですよね。
それで、「そっちに行ったら幸せになれるんじゃないか」って空想してる方向に行けなかった場合に、「ああ、これ、悪いことが起こった」って勝手に判断したりするわけなんです。
石原さんがおっしゃったように、我々は五階層といって、自我の願いといいますか体(私)より上に、いわゆる魂や霊であるとか、神であるとか、あらゆる階層の自分がいて、より深いところ、神と公というのはイコールだと思うんですけれど、その高い階層に動かされた願いが叶っていく。
そうすると、自我では思いもつかないような、実は素晴らしい出来事が起こってきたりしたりするわけですよね。
そして、「とほかみえみため」を唱えていると、むしろ、奥深い部分の、より自分にも良くて、周りの人にも良い「公の道」っていうのがどんどん開けていってしまうので、もしかしたら、それは自我からすると、「なんか思いどおりの方向じゃない」ということも多々出てくると思います。
ですが結果は、実は自分にとって、より良い方向に必ず進んでいるので、その辺りは安心していただいていいのかなと。
阿蘇:願望の階層と捉えると難しく見分けがつかない方も多いかもしれませんが、どっちかというと、欠乏感というか、自分がマイナスだと思って、足りないと思って欲しいって思ったものは、本質的な願望ではないかもしれません。
我々も神社に行くときに、「神に力を与える立場だ」って考えるのと一緒で、力をいただくというよりも、「力を与える存在だとしたら何をするか」っていうところが意志なのかなということも思っておりますね。
大島:確かにそうですね。
石原:あと、やはり大本にたどり着くためっていうのが、一番の楽しみといいますか。
遠津御祖神というところで「とほかみえみため」があるんですけども、結局、原点回帰というのが、最近の研究所のテーマであります。
正しく大本に戻ると、また新しい世界を創造できるんですけど、自分の欲望っていうところを満足させるっていうところから発した願いだと、そのとき叶って良くても、叶ったその後、なんか虚しさを感じたり。
あるいは、本当に叶わなかったとき、ひどく心にダメージを負ったりするんです。
最初から大本を意識した上で「とほかみえみため」を唱えていると、「(叶っても叶わなくても)どっちでもいいや」っていう。
最終的に、どっちでもいいっていうところにたどり着けるのが「とほかみえみため」の醍醐味でもありますね。
そういう価値観を持った上で「とほかみえみため」を唱えると、より一層、楽しいかなという感じはしますよね。
大島:一般の方って、どちらかというと、自分を低く見積もっている方が非常に多いじゃないですか。
だから、なんとなく、先ほど阿蘇さんがおっしゃったような、神に力を与えるとかいうと、「えー、私にそんなことできっこないよ」って思ってしまうと思うんですけれど、本当は、我々のベースとなっているのは、我々の中にしっかりと神という、神の働きがあるんです。
本当は自分が思っているより、遥かに素晴らしい存在なんだっていうことなんですよね。
それで、自分が思っているより遥かに素晴らしい存在である自分に出会えるっていうことが、やはり最高の幸せであり、「とほかみえみため」を唱えていると、目の前の良い、悪いとか、良いことが起こった、悪いことが起こったとか、そういう次元じゃない、本当の自分に会えるっていう最高の楽しみがあるわけなんです。
その道筋の過程で、一見つまずいたように見えるようなことがあっても、最終的には必ず素晴らしい自分に巡り会えるので、それを楽しみに、日々唱えていっていただきたいと思います。
ここまでが1つ目のご質問でした。
それでは、次のご質問に回答していきます。
「とほかみえみため」を唱えるのが習慣になってきたのですが、唱えはじめの時期にはなかった体感があります。唱えていると、ときどき、急に気持ち悪くなったり、イライラした気分になったりするときがあります。そのようなときも構わず唱え続けていますが、このまま進んでもいいのでしょうか?
大島:ということです。
阿蘇さん、どうでしょう。
阿蘇:そうですね。
前回の質問の回答の中にもありましたけど、今まで我慢してきたことや滞っているところが解放されている過程には、やっぱりそういう感情とか、我慢していた、言いたくても言えなかったこと、そういう我慢して抑えていた感情がどんどん出てくるっていうのはよくあります。
「みえます」に入られている方だと、『感情マスタープログラム』という大島さん中心にされているプログラムがありまして、その中で感情をちゃんと確認して、自覚することが非常に大切になります。
感情が出る過程でしっかりと認識すると、またそれが解放されることになるので、そのような感情が出てくることが、自分にとってプラスにはなっていると思うんですね。
それが、抑圧していたものが出て、快方に向かっているだけなので、その後でやっぱりすっきりする、ゼロポイントに向かっている一つの過程だと思って、捉えていただければいいのかなと思います。
大島:石原さん、どうですかね。
石原:そうですね。
本当にその通りで、まず「おめでとうございます」と言わせていただきたいです(笑)。
あとは、浮き出てきた感情を掴まないでほしいですね。
このような相談はわりと多くて、私もエクレルの記事で書いたこともあります。
「とほかみえみため」で、なぜ苦しくなったり、イライラしたりするか、というところの二次感情を深く見ていくと、「とほかみえみため」で幸せになりたいとか、「とほかみえみため」で必ず楽になれるはずだ、ということが心の内側に潜んでいることが多くあります。
なので、心の深いところで感じたそのギャップが、体の感覚に表れて、イライラ感や不快感として出てくるということもあるので、どちらかというと、「とほかみえみため」は最初は洗剤だよっていうくらいの気持ち。
汚れを浮かび上がらせてくれる、洗剤を飲み込んだような気持ちで唱えると、汚れが出てきたんだっていう余裕を持てると思います。
そういう感覚と向きあって「とほかみえみため」を唱えていけば、そういう状態から、またさっと抜けるのも早くなるし、抜けなくても、このイライラとまた仲良くしてこうくらいの余裕ができてくるかなと思いますよね。
大島:洗剤の例え、分かりやすいですね。
だから、普通の人は心の中に浮かんでこないと、なかったものだとしちゃうわけですよね。
それで「とほかみえみため」で浮かんでくると、なんでなかったものが出てくるんだっていう認識になると思うんですけれど、それは、自分が認識できる範囲の中になかっただけで、いわゆる潜在意識とか、より深いところにはもともとあったものだと。
それで、それをそのまま出さないと、例えば体に症状が出て、体の不調になったり。
あるいは精神的にちょっとピークを超えてしまうと、精神的に病んでしまったりとか、そういう原因になるわけですよね。
自分の中に今まであったものが、お掃除されて消えてく過程で現れることなので、それは安心していただいて大丈夫ですよね。
ですので、このご質問のお答えからいうと、このまま唱えてくださって結構ですよっていうことですね。
阿蘇:ちょっと補足すると、石原さんが「洗剤」っていう例えをして、大島さんが「潜在意識」って言ってくれました。
私からも「せん」つながりで、「先祖」っていうキーワードでお答えさせていただくと、自分で経験しなくても、先祖の浄化が起こっているということですね。
遠津御祖神の働きで、先祖に対してもいいこと、浄化をしているっていうケースが出てきますよね。
ですので、本当に、おめでとうって言いたいです。
大島:そうですね。
石原:やっぱりそうですね。
確かに、先祖っていう視点もありますね。
自分だけの潜在意識なのか、それとも先祖っていうところまで遡って考えるかで、またまた意識がすごく広がっていきます。
唱えがいがまた出てくるなっていう感じがしますよね。
大島:そうですよね。
だから、先祖が解消できなかった感情を、子孫である自分が解消しているんだという意志でいれば、すごいそれも楽しいですし。
ちゃんとこれでご先祖供養になっているっていうことでもありますので、ぜひ、楽しみながら続けていただければいいかなと思います。
今回はここまでとして、次回も続きのご質問にお答えしていきます。
大島:皆さん、こんにちは。大島英明です。
座談会シリーズが好評をいただいていますが、今日も石原さんと阿蘇さんとともに、お送りします。
今回は特別編ということで、エクレルに寄せられたご質問に、皆で答えていきたいと思います。
まず1つ目のご質問です。