前回から大島さん、石原さん、阿蘇さんの3名で、
エクレルの読者様から寄せられたご質問にお答えいただいています。
まだ、前編をご覧になっていない方はコチラからご覧ください。
それでは、後編の質疑応答もお楽しみください。
「とほかみえみため」を唱えないといけないことに囚われてしまっている気がします。どうしたらいいでしょうか。
大島:ということなんですが、こういうときどうしたらいいですか、阿蘇さん。
阿蘇:そうですね。
僕は昔、スポーツというか、格闘技の選手をやっていたときは、練習とかウエイトトレーニングを「やらなきゃいけない」っていうのがあって、それはすごく辛かったですね。
でも今、こういった形で本当にカジュアルに「とほかみえみため」っていうのをどんどん使ってくださいってやっているんで、あくまでも主体的な意志として取り組んでいただきたいんですね。
我々としても強制しているわけじゃないんですけど、強制されている感じがしてしまうんでしょうか、強迫観念と言いますか。
大島:結構真面目な方だと思うんですよね。
真面目だから、「ずっと唱えてないといけない」と思われているかもしれませんね。
阿蘇:そうですね。
特に「ずっと唱えなければいけない」ということは全くないっていうのと、先ほど、石原さんの話とは少し違うかもしれないけど、あんまり「こうなるべきだ」とか、先に作らないというのが大事かなと思うんです。
体験談とかでも「たくさん唱えてこうなった」など色々と寄せられますが、それに囚われなくていいのかなと思いますね。
大島:石原さん、どうでしょう。
石原:そうですね。
囚われていいじゃない、とも思います。
囚われても唱えればいいっていうですね。
だから多分、「唱えないといけないことに囚われている。それがいけない」っていうところに囚われているっていうところがあると思うんです。
さっきの洗剤と同じで、やっぱり、それも一つの浮いてくるアカみたいなものなので、囚われながら唱えればいい、それでいいじゃないかっていうところですよね。
大島:私的にはね、「唱えないといけないっていうことに囚われている自分」を、「とほかみえみため」祓ったらいいのかなっていう感じはありますよね。
石原:さっきの阿蘇さんの話にもありましたけど、ご先祖が何らかの訴えを抱えていて、それが現れているのかもしれません。
自分の中で唱えるっていうことに対する、ちょっと妨害っていいますかね。
それはご先祖の訴えなのか、それとも何かの、よく私が憑依っていうようなですね、一種のそういう作用っていうようなところが、邪魔していることもあることも、ちょっと覚えておくと良いかなと思います。
何か邪魔が入ったのかもしれないってちょっと思うだけでも、なんか急にさっと楽になる場合もありますのでね。
大島:だから、「とほかみえみため」を唱えていると、いろんな感情であるとか、いろんな価値観、思い込みが出てきますよね。
そういうものを片っ端から感じながら唱えてみると、いつの間にかなんともなくなっちゃうていうことが結構ありますので。
その1個の感情、あるいは価値観を掴んで、ずっとそればっかりに、思いつめないっていうのがやっぱり大事かなと思うんですよね。
もうそれ自体が自分の囚われだったりするので、それをもう「とほかみえみため」で祓っちゃう。
そうすると結構あっさり解消することもありますよね。
それでは、次が最後のご質問になります。
初めから参加させていただいています。ずっと実践していましたが、とても悲しいことに、これと分かる変化が感じられません。何か間違えているのか、よほど祓えないことを多く抱えているのでしょうか?
大島:というご質問なんですけど、今までのQ&Aとすごく重複する部分、共通の部分っていうのもあると思うんですが。
改めて、阿蘇さん、この方にアドバイスありますでしょうか。
阿蘇:そうですね。
今までの質問とやっぱり根っこは一緒なところはあるとは思うんですけど。
やっぱり、いろんな体験談のようなことが、自分はないからどうしようとか、効いてないんだっていうふうに思いがちなんですけど。
体感がなくても、必ず深いところでこの言葉を唱えていると、何かしら解消するものがあるので、あまり体感とかですね、劇的な体験談のようなことがないからといって、効いていないということではないんですよね。
ずっとやっていくと、ある時点で自分の意識、持ち方が変わってきたなっていうのを確認できる、自覚するポイントっていうのは出てくると思うんですね。
それは決して、なんかそんなに大きい体験談じゃないかもしれませんけど、「以前はこういうところでこういうふうに反応していたのに、全然そういうのが気にならなくなった」とかですね、そういう、ちょっと細かいところを、確認してみるといいんじゃないかなとは思いますね。
絶対に違いは出るはずなんで。
大島:ありがとうございます。
石原さん、どうでしょう。
石原:そうですね。
とても悲しいと気づけたっていうとこで、もう結果が出ているっていうことが一つあるかなと思います。
要するに、「とほかみえみため」を唱えて、やっぱり最初は、何らかの思いがあって始められたと思うんです。
でも、続けていて何もないということも、悲しいとも思わないっていう日々がずっと続いていたわけで。
それで感情が出てきたことがあれば進化なんだっていうことで。
やっぱり、目に見える成果を欲するっていうところがあると思うんですよね。
さっき潜在意識の話になりましたけども、顕在性と潜在性をきちんと認識したほうが良くて、今、目に見える、自覚できる成果として出ていること以外の成果が実は、「とほかみえみため」を唱えている以上はずっと生じているっていうことを、最初分かんないんだけど、まず認めてあげるっていうことですね。
自分でそういうことを、最初言い聞かせたら、言い聞かせるプロセスもはやり必要かなと思うんですよね。
それも一つの言霊なので。必ず「とほかみえみため」を唱えて、効果早く感じたい、でも感じられない、悲しいっていうことが出てきました。
さらに、それにもう1個くっつけて、いや、悲しいっていうこと自体一つの結果だと。
で、その奥で、深く「とほかみえみため」が浸透しているからこそ、そういう心の思いにも気づけているんだって、もうちょっと言葉を付け加えていくということですね。
それで「とほかみえみため」っていうのをまた改めて取り組むっていうことは大事かなと思います。
石原:質問された方の気持ちはよく分かります。
私も若い頃に祝詞に興味持ったけど、挫折したことがありました。
それは、やはり座禅とか瞑想とか、気功とか、あるいは身体的なワークで統一するのに比べて、言葉なんで。
言霊が分からないうちは、ただの言葉なんで、それで変わる実感が最初、どうしても持てないっていうことで、一回辞めてしまったことあって。
それで、言霊とセットで今回習えて、初めてなるほどって思ったところあるんですけど。
ただの言葉から、実感っていうより、言霊に移行する過程っていうのが必ずあって、今、そのプロセスを順調に歩んでいるんだっていうですね。
それはまた、こういう言葉を聞いたら改めて自分に言い聞かせていただくっていうね。
最初、ピンとこないかもしれないけど、とりあえず自分にそういうのを言い聞かせながらまたやるっていう、そういうプロセスあるのかなっていう感じはしますよね。
大島:確かにそうですよね。
また、違う視点からじゃあ僕はお話しさせていただくと、人の体験談をもらっちゃえばいいんだと思うんですよ。
結局、人間って深い意識にいけばいくほどですね、自と他とかないので、別に自分に体験談なくたっていいんですよ。
「とほかみえみため」を唱えている他の人に体験が出たと。
それ、素晴らしい体験だなって自分がもらっちゃえば、自分の体験になっちゃうんで。
そうすれば、自分の情報場がどんどん、どんどん豊かになっていって、そういう体験がいつ起きてもおかしくないというか、もう全部取り込んでしまうので、そういう境地になっちゃうんですよね。
だから、あんまりその辺ですね、自分の体験、他人の体験とか分けずにですね、「とほかみえみため」で起こった体験はもう全部自分のものだと。
自分に起こった体験はみんなのものだと。
その辺りの分離を外していくと、より奇跡っていうものを体感しながら、生きていけるんじゃないかなって思いますね。
石原:そうですね。
初めから参加してくださっているということで、他の人の体験談に随分触れてらっしゃると思うんですよね。
だから、実はもう本当、自分でも大きな変容が起こる手前までエネルギーが満タンに、どんどんどんどん充満しているところかもしれないですし。
大島:そうですね。
石原:今日の言葉でぱっと火がついて、パンと爆発するかもしれないですからね。
大島:そうですね。
もうパンパンに張っている感じですかね。
石原:そのような心持ちでいていただければと思います。
大島:ということで、今日はエクレルにお寄せいただいたご質問に回答させていただきました。
またこういう機会を持ちたいと思いますので、楽しみになさってください。
ということで、石原さん、阿蘇さん、ありがとうございました。
石原:ありがとうございました。
阿蘇:ありがとうございました。
大島:それでは続いてのご質問にお答えしていきます。これはパラドックス的な話なんですけど、