皆さん、こんにちは。
浅子雄一郎です。
「とほかみえみため」を唱えていて
こんなことを思ったことはないですか?
「あれ、なんかいつもの自分の声と
違う気がする・・。」
それは、「とほかみえみため」という
言葉がもたらした変化かもしれない。
今回は、そんなお話です。
よく考えてみると
言葉って、不思議ですよね。
生まれる前から言葉は存在していて
気がつけば、言葉を話しはじめて
周囲の人も、同じ言葉を話している。
言葉は、誰のものでもないし
同時に、誰のものでもある。
と、つい哲学的な考えに誘われます。
そんな言葉を操る「私」も
両親からそれぞれの遺伝情報が
合わさることでできていますね。
両親にはまた同じく両親がいて・・
と辿っていくと
「私」とは、まさにご先祖の集合体。
その意味で、「私」と呼べるものは
本当は存在していないけれど
「私」は確かにここに存在している。
この感じ、先ほどの言葉の不思議と
どこか似ていませんか?
「命(意識)」とは
「言葉」のことなのかもしれない。
「とほかみえみため」を唱えていると
ふと、そんな考えがよぎります。
そこで冒頭の質問ですが
私の場合は、大抵このようなことを
考えているとき
つまり、「私」や「公」という
言葉の概念に変化があってから
「とほかみえみため」を唱えると
「あれ、なんかいつもの自分の声と
違う気がする・・。」
と、感じることがあるのですね。
たとえば、公というと
「私を犠牲にして公のために」
と考えてしまいがち。
ですが、「公とは私も含んだ視点」
であることに気づくと
「私を犠牲にするのは
公のためにもならない」
という考えに変わったりします。
すると、途端に響きが
変わってしまうのは、なぜなのか。
私は、そのヒントを
「公響詞」
という言葉に見ています。
「公響詞」とは
「とほかみえみため」にはじまり
「とほかみえみため」に終わる
白川伯王家に伝承される祓詞の
もう一つの名です。
それは、祓い(とほかみえみため)が
特定の誰かを超えたところで最も響く
「公の言葉」
であるからではないでしょうか。
とすると、「私」や「公」についての
概念と意識の変化に伴って
言葉の響きが変わるのは
至極当然であるように思えるのです。
しかし、ここで一番お伝えしたいのは
「公の意識を持とう」
ということではありません。
神の言葉である「とほかみえみため」の
響きに身をゆだねていれば
意識は自然と、「公」に開かれていく
からです。
まさに、「言葉と意識はつながっている」
ことを思わせます。
そのことをダイレクトに体感できる
「とほかみえみため」。
意識作りから始めようとすると
難しいものですが
「響き(言葉)」から入ることで
簡単に、意識は変わってくるのですね。
そこで、ご紹介したい
「響き」があります。
すでにご存知の方も多いと思いますが
初音ミクが唱える
「銀河を祓う
『とほかみえみため』40回」です。
公開から1ヶ月少々で
すでに10万回以上再生いただいている
この動画。
公にこれほどまでに響き渡っているのも
まさに「公響詞」たる響きを宿している
からではないでしょうか。
つまり、初音ミクのような
ボーカロイドによる祓いには
次のような大きな特徴があります。
それは、祓いを上げている者が誰か
ということに関心がいかないこと。
特定の誰かを超えたところで最も響く
「公の言葉」になっていることです。
誰のものでもないし、誰のものでもある。
存在していないが、存在している。
いわば、そんな「命(意識)」と
「言葉」の交差点で鳴り響く
最強の音であるといえます。
ですので、この動画とともに
「とほかみえみため」を唱えれば
意識においても
言葉の響きにおいても
それは、すべてを動かし
すべてを生かしている「公」という
宇宙そのものとなっていくでしょう。
もちろん、「とほかみえみため」
という言葉自体に、そのような
はたらきがありますので
音源なしで唱えるだけでも
十分にパワフルです。
より強力なサポートを
受けながら唱えたい。
いつでも「とほかみえみため」と
一緒にいたい。
そんなときに、活用してみてください。
※「みえます」では、この初音ミクの
音源データをダウンロードいただけます。
言葉の響きによる、意識の変化。
「とほかみえみため」で
ぜひ、実感してみてくださいね^^