皆さまこんにちは!
エクレル講師石原政樹です。
前回は、現代の皇室に残る「とほかみえみため」をお伝えし、明治の動乱期に、その本当の意味合いは失われてしまった、いったい何がおきたのか?
というところで終わりました。
今回はその続き。
ちょっとショッキングな内容ですが、「とほかみえみため」を私たちに伝えた先人の苦労をたどりたいと思います。
明治維新の動乱期におきたこと。
それは天皇祭祀の抹殺でした。
いち早く危険を察した孝明天皇は
「とほかみえみため」の元締めとも言える白川伯王家最後の学頭である高濱清七郎を野に逃しました。
天皇はその後間もなく急死。
その死に関しては、毒殺説がいまだに根強く存在しています。
また当時祭祀に関わっていた「さにわ」「かみしろ」「はふりめ」達の多くは出自がはっきりしていたため、身元を突き止められ、ことごとく暗殺されたと「白川神祇官沿革物語」に記されています。
高濱清七郎から皇太子時代「十種神宝御法」を受けその意義を充分理解した明治天皇は即位後も
「高濱は今どこにいるか」と側近に再三再四問われたと言い伝えられていますが、
誰も消息を知らせることをせず、宮中に戻ることは叶いませんでした。
列強に伍するため、一神教的神社神道の確立に邁進していた彼らからすれば、本来の神=人の中の自由意志を発動する「とほかみえみため」を擁する白川伯家神道の存在は邪魔だったのでしょう。
現在彼等が遺した神社庁では「遠つ御祖神」という表現は残しつつも「とほかみえみため」は、
「はっきりした意味はわからない」
「もともと、占いに用いられた言葉」
(神社庁「神道いろは」)
という漠たる表現に覆われてしまっています。
以後、「とほかみえみため」の真伝は民間の中で密かに受け継がれていくこととなります。
それは民が神を掴む、新たな夜明けの始まりでした。
(つづく)