「おみち」〜自由になるために型はある〜

内容


皆さま、こんにちは。
石原政樹です。

「とほかみえみため」の源流である
白川伯家神道はかつて単に

「おみち」

と呼ばれていました。

あらゆる道の極意のような「おみち」
ですが、日本には様々な「道」があります。

書道、茶道、華道、様々な武道には
「型」があり、この型こそが日本文化の叡智の結晶であると言えます。

みなさんは、なにか経験された
ことはありますか?

たとえば、私もご縁がある禅道
においては、坐禅はもちろん、
日々の作務(掃除)や食事にも
細かな作法があります。

合理的に考えると
「ここまでしなくても
いいんじゃないの?」
と言いたくなる作法もあります(笑)。

私が学生時代に打ち込んでいた
剣道は、昇段審査で「日本剣道形」がありました。

当時はただ機械的に型を覚えて
いたのですが、祓い・鎮魂・言霊
を実践すると、

型自体が一種の祓いの
作用がある日本人の智慧である
ことに気づきます。

つまり型とは自分の今までの器を
一旦破壊して、その後に新たな器を
作ると言うはたらきがあるのです。

さらに言えば、優れた型とは絶えず
ゼロに戻り、自在に再構築し続け
られるものである、ということです。

本当の型とは、壊してはつくり、
また壊してつくるということで
人を束縛から解き放っていきます。

つまり、不自由な自己を壊して、
本当の意味での自由になるために
あるのが型である、といえます。

逆説的ですが、自分を型にハメる
ことで型を破ることが
できるのです。

歌舞伎で伝統的に言われることに、
「『型崩れ』は良い。
『型無し』は良くない」
という言葉もあります。

型を極めると、
たとえば武術では、相手の繰り出す
技に変幻自在な対応ができるようになります。

ビジネスも型を体得すれば
プレゼンや文章作成も苦もなく
できるでしょう。

本来自由になるためにつくられた
「型」も、時代とともにそれを
覚えて正確に行うことが
その団体の権威となり、

名誉や欲が絡んだ段階で
形骸化していきます。

白川の「おみち」も日々の行では
正座をし、四種の祓詞を
唱えますが、これも「型」です。

そして自修鎮魂法も正座して
黒い鎮魂石を29分間観ます。

これも敢えて自らを、窮屈な場に置く
ことで、慣れない人にとっては、
五魂が遊離しやすい状況をつくり、
それをまた統合していく作業です。

慣れないと雑念が出て五魂が遊離
しやすい状況だからこそ、その乱れ
を自覚でき、またそれをきちんと
統合することができます。

統合を実感すれば自修鎮魂の時間が
1秒であろうが29分であろうが
変わりません。

時間を超えた中今の中に安らぐ
ことができます。

自修鎮魂が終わり、日常に戻っても
鎮魂中のように平安清明の中で、
日常生活を送ることができます。

鎮魂は穏やかに収まるだけの瞑想
とは違い、鎮まった後発動します
ので、創造を楽しみ、豊かな
コミュニケーション
を築くことができます。

途中の成功体験にとらわれず、
その瞬間瞬間の最適な思考
と行動を取れるのが

「祓い・鎮魂・言霊」そして
「とほかみえみため」
の魅力であると言えるでしょう。

このように「秘行」と呼ばれる
祓い・鎮魂を行じて、スッキリ
鎮まったところで

現実の世界に戻り、また型が崩れ、
秘行に戻り型を整え、また日常の
様々な刺激の中で型がくずれる。

それをまた祓い・鎮魂・言霊で整える、
ということを繰り返していくうちに、
崩れることと崩れないことの境目がなくなり、

崩れることにも秩序があり、秩序の
中にも自由があるということを
実感するようになります。

神拝作法がきっちりしている白川が
「究極の作法は無作法である」
と言うのもそこにあります。

これからも究極の自由に向かう
「おみち」を皆さまとともに
歩んでいければと思います。

ABOUT US

禅僧の祖父の影響で、子どもの頃から禅や各種瞑想に親しむ。20代後半、10時間を超える瞑想中にエネルギーが覚醒、一切の存在と融合するという神秘体験をする。
その後、少林拳、少林武術、太極拳、古武術、レイキ、気功、気導術、ヴィパッサナー、肥田式強健術、等を学ぶ。崇山少林寺では14代館長釈永信管長より、動功の免許を拝受。
現在はneten株式会社顧問・白川伯家神道を継承する一般社団法人白川学館理事を勤める。
祓い・鎮魂・言霊・netenテクノロジーこそが時代のあらゆる局面を解決できる鍵であることを実感、その普及に尽力している

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20 件のコメント

  • 型には意味がないってずっと思っていたので、大変ためになるお話でした。
    今まで型破りのことばかり考えていたので、改めてみてみようと思います。

  • 素敵なメッセージ有難う御座いました。

    崩れることにも秩序があり、秩序の中にも自由がある。
    すべての道に通ずる箴言だと思ます。

    趣味で気功をやっているのですが、とても頷けます。

  • お話しを読ませて頂き、「型 」とはそう言うものなのかと、納得致しました。
    しかし、なかなか難しい事ですね!
    修行です!
    ありがとうございます。

  • 私は、書道を長年行ってきて、この‘おみち’に関して合い通じるところがあると思っておりました。ですが、型は、不自由ではないかとどこかで思っていたのですが、逆説的発想により、型は自由になる為にあるという事を、しっかり受け取る事ができ、新たなるスタートをきる事ができます事、ありがとうございました。

  • 残念ながら「道」とつく茶道も花道も本格的に習ったことはありません。

    今想いだすと、亡き母から教わった「お辞儀」着物を着た時の歩き方の「所作」は引き締まるものがありました。

    三人の娘を育てていて、娘達が幼い頃に「お婆ちゃんにこう教わったのよ」と
    ・正座して、左右脇から畳に腕を沿わせて前で三角を手で作る
    ・その三角の中に鼻が来るように
    ・背中はピンとして首は曲げず(えり首を相手に見せず)お辞儀を!3つ数えるまで頭を上げない!

    私自身も子供心に日本の「心」を教わったようで喜びがありました。
    こうして亡き母は私の中で、娘達の中でも生きているなぁー!とつくづく感じます。

    想い出させて頂き、有り難うございました。

  • 自由になる為の型は、日々の暮らしの全てに在ると思います。今回のお話は、自分な中で具体的なイメージと結びついたというか、こちらで話されることが、やっと腑に落ちる心地がしました。ありがとうございます。

  • 石原先生 いつも深いコラムに感謝申し上げます。
    茶道、華道、書道、作詞、イラスト、レタリング、レイキマスター等、色々と学びましたが、全てが自分にとって有益な型でした。ひとつも無駄のない体験でした。
    今、究極の学びに至れることを限りなく幸せに存じます。

  • テーブルを見て、なんとか紙の上に描きたいと思ったがどうしても今、目の前でみているのと同じテーブルを写しとれなくて。諦めて次は蜜柑を描いてみたら、今度はまぁまぁ似たようなモノになった。あの3才のころ、家に誰もいず寂しくて孤独で、そこから抜け出すために集中して描いた数時間が、私が絵を好きになったきっかけだった。田んぼのほとりに一人置かれて、田の土を取って形を作ってみた。それはとても楽しくて、竈門やフライパンや焙烙もつくってみた。その一日の数時間の集中が一生に亘る体験になっている。誰に言われた訳でもなく、子どもなりに、ハイハイや立ち歩きの延長線の上にあった、自分を救うもがきだったと思う。文字を習得したのも、漢字の読みを類推して覚えたのもそのようにしてきた。小学校入学前までに。働く親の傍らで昔の子供達〜とくに都市近郊の農村部の戦後間もない頃の子供達はそのように育ったなあと、思い出しました。
    幸せな、ある時代の一瞬。

  • 今まで、武術や武道を少しばかりかじったことがありますが、言われてみて、そういうことだったのか、と思いました。極めた人ならではの言葉だと思います。物事への見方がまた変わります。
    ありがとうございます。