こんにちは、
「とほかみProject」プロジェクトチームの平井です。
本日は新企画「エクレル講師陣インタビュー」第四弾として、
阿蘇さんのインタビューをお届けします。
今まで詳しくは語られてこなかった、
エクレルの先生方がどのような経験を積まれ、
どのような出逢いから、白川の道を歩まれたのか。
ベールに包まれた先生方の過去に迫りました!
今回も必見です!
講師=阿蘇さん
インタビュアー=平井
スケールの大きさに魅せられ格闘技の道へ
阿蘇:小学生・中学生時代までさかのぼると、これといった特技や夢中になれるものがありませんでした。
部活もやめて、楽しみは帰宅してテレビ番組を見るくらい。
でも、中学2年の時に、ボクシングとか、格闘技が好きな友人がいまして。
その影響で、極真空手の世界大会のテレビ放映を見ました。
すると、アンディ・フグっていうスイスの空手家が、ものすごい勢いで勝ち上がってきたんです。
もう亡くなってしましましたが。
平井:『かかと落とし』で有名だった方ですか?
阿蘇:そうそう。
『かかと落とし』で、空手界にインパクトを残し、その後、K—1などの格闘技で有名になっていくんですが。
その空手のトーナメントでは、切れ味鋭い技で強い相手をバッタバッタと倒していくわけですよ。
空手ってカッコいいな〜、白い道着を着て、礼節を重んじ、限界に挑む。
空手家って現代に生きる侍みたいだなと思って。
その憧れから、極真空手の創始者の大山倍達氏の本を読みました。
「進駐軍の素行不良な連中を次々と叩きのめした」とか「アメリカでプロレスラーと真剣勝負して失神させた」などは序の口で、「牛の角を手刀で切り落とし、一撃で仕留めた」とか、「ゴリラにとび蹴りをして退散させた」とか、そんなことが書いてあるんです。
武井壮さんの「猛獣の倒し方」をリアルにしたような話で、今でしたら、確実に動物愛護団体からクレームが入るでしょうが。。
平井:ははは、なるほど。
阿蘇:戦後の時代背景もありますが、そのスケールの大きさに、「え〜、世の中にそんな人がいたのか!」とロマンを感じて。
あとからフィクションも入っていることも知りましたが、中学生の自分にとっては、「これは大変なことになった」と、血が騒ぎ、いてもたってもいられなくなってしまいました。
「空手は99%の努力である」「誰でも強くなれる」とか、そんなことも書かれていました。
自分はテニスボールが顔に当たってからラケットを振るくらい運動が得意でなかったのですが、「俺にもできるはずだ!」と思い込み、空手の道場の門を叩きました。
平井:なるほど、なるほど。
阿蘇:実は、私の祖父が柔道家だったんですよ。
後から知りましたが、戦後、大山倍達氏を日本の空手家としてアメリカに紹介して渡米のきっかけを作ったのも祖父だったのです。
そんな祖父から受け継いだ遺伝子のスイッチが入ったのかもしれません。
それで生まれて初めて夢中になるものを見つけました。
よき指導者にも恵まれ、高3の時には全国大会で3位になりました。
大学進学後も、K-1がブームになりはじめて、キックボクシングに転向し、オランダで武者修行を3ヶ月くらいして、向こうでもプロデビューをしたりしていました。
また、プロレスラーと異種格闘技戦をした経験もあります。
平井:へぇ〜、すごいですね!
挫折。その後、目に見えない領域に興味を持つ
阿蘇:そうですね。
ですが、個人主義で好き放題にしていたので、謙虚さも失われてきまして・・
トレーニングで増強する筋肉とともに「俺はチャンピオンになるために生まれてきた男だ」と妄想も強化されてしまいました。
実際のところは自分が思っているよりも強くありませんでした(笑)
勝てると思った試合で負けたり、石原さんみたいに辛い練習を乗り越えることができず、理想と現実のギャップに自信を失くして。。
結局、プロとして食べていく道は挫折しました。
それで格闘技はやめて、「仕事を探さなきゃいけない」「様々な経験をしたい」という時に、ちょうど阪神淡路大震災があったので、神戸に移り住んで、土木作業員をして、仮設住宅を作ったりですね、大阪ドームの建築現場に行ったり現場仕事をしばらくしていました。
けれども、作業中に手を怪我してしまい、力仕事ができなくなっちゃったんですよ。
その後は車を買って廃品回収をしたり、雑貨の輸入販売業をしたりですね、いろんなことをやっていました。
平井:そのようなご経験があったんですね。
阿蘇:なんでも一生懸命やれば面白いし、お金稼げるし、生きていけることは分かりましたが、自分の特性を生かした仕事をしたいという欲がでてきました。
そこで、空手を始めた中学の頃からウェイトトレーニングをして、サプリメントにも詳しかったので、フィットネスインストラクターと空手の指導員をすることにしました。
インストラクターは、トレーニングの指導や食事やサプリメントのアドバイスが主なお仕事です。
ジムの現場では、毎日、真面目に運動をして、食事もすごく気を付けている会員の方が病気になってしまうということも目の当たりにしました。
健康への意識が高く、運動をして食事も気をつけているのに、なぜ病気になるんだろう?と。
すると、「ストレスとか、メンタルとか、そういう目に見えない部分が大切なんだな」っていうことが、分かってきたんですよね。
平井:なるほど、その辺りから目に見えない世界を大切にされはじめたのですね。
阿蘇:ただし、「目に見えない領域を具体的に、どのようにサポートするのか?」っていうのが分からなくて。
せいぜい「頑張ってください」とか「気合で乗り切りましょう」とか、励ましの言葉をかけるくらいしかできませんでした。
しばらくして、200年以上の伝統がある「ホメオパシー」という自然療法の存在を知りました。
使用するのはレメディと呼ばれる、砂糖の錠剤ですが、その錠剤に記憶された情報が人間のエネルギーフィールドに影響を及ぼし、本来の健康な状態に戻すという概念に興味を持ったのです。
ですが、ホメオパシーは、ホメオパスという専門家がクライアントと何時間もカウンセリングして、何千種類もあるレメディの中から、その人に合ったものを選んでいくのが難しいんですね。
また、多くの知識や経験に裏付けされた個人の能力が必要なので、習得にかなり時間がかかる訳です。
おそらく、デジタル化された時代においては、治療機器などの技術も進歩しているので、「その人のエネルギー状態が簡単に測定できて、必要なレメディのデータで出てくる装置が、どこかにあるんじゃないか?」って思ったんですよね。
平井:そうなんですね。
MRA(共鳴磁場分析器)、江本勝先生との出逢い
阿蘇:それで、パシフィコ横浜で『統合医療展』という展示会をやっていたので、そこに行ったら、実際にあったんですよ!
そういう装置が。
東洋医学の概念では、経穴と呼ばれるツボや経絡っていう氣の通り道があって、そこに測定器を当てて電気を流すことで、氣の流れが滞っているかどうか数値で判定できる技術がありまして。
滞っている箇所や数値の度合いによって、「この人はここが弱っている」「このような感情が出やすい傾向がある」とか、「このような食品に気をつけて」、「ホメオパシーだったら、このレメディを摂るといいよ」などのデータがバーッと出る機械があったんですね。
このような装置に「知性」「愛」を感じてしまいまして。。
平井:装置に「知性」と「愛」ですか?
阿蘇:はい、装置は開発者が魂を込めて作り出した結晶といえますよね。
膨大なデータを元に早く正確に測定する機能に「知性」を、人を癒し健康にするという目的に「愛」を感じ、それらが装置というカタチで表現されていることに衝撃を受けてしまったのです。
阿蘇:その後、いろいろ調べていくと、波動機器というものは、日本に一番最初に輸入されたのはMRA(共鳴磁場分析器)という機器だったそうです。
MRAを日本に持ち込んだのは『水からの伝言』という水の結晶写真の本で、世界的に有名な江本勝先生でした。
丁度、江本先生の会社で、最新のエネルギー測定器を新しく展開するタイミングでしたので、なんとかそこに入社することができました。
平井:それもなにかのご縁ですね。
阿蘇:こうして、その装置の販売や、ユーザーさんのサポートなどに携わることになったんです。
それと、ロシア源流の海外の機器でしたので、ソフトを日本向けにバージョンアップしていく開発とかを担当させていただくようになりました。
江本先生は、測定器を使う人の在り方が場に影響するので最も大切であるということ、森羅万象は言葉でできている、言霊や古神道が今後の世界で大きな役割を果たすということを、いつもおっしゃっていました。
そして、2008年くらいの頃、船井幸雄さんのブログに、「神道や言霊の研究家の七沢賢治さんが、言語エネルギー発生器を開発した。」と書かれているのを見つけました。
「会いに行かねば!」と思った矢先に、会社を経営している空手の先輩が「阿蘇くん、そういった仕事をしているのだったら、取引先を紹介するよ。
サロン経営している人がいるから、営業しにいったらいいよ」って言われて、紹介してくれたのが、大野さんだったのです。
大野さん、そして七沢先生との出逢い
平井:そこで大野さんと出会われたんですね。
阿蘇:そうなんです。
大野さんは当時、とある事業会社で役員を務める傍ら、健康関係のサロンを経営されていて。
そこに七沢先生が開発した言語エネルギー発生器QESというのが置いてあって、色々とお話ししているうちに「じゃあ、七沢先生を紹介してあげるよ」とおっしゃってくださったんです。
その後、大野さんと一緒に甲府に行き、七沢先生に出会えたという経緯なんです。
平井:なるほど。
元々、そのホメオパシーとか出会う前までは、目に見えないものとか特に信じていなかったのでしょうか。
阿蘇:武道をやっていたので、精神性は大事だという認識はありました。
ですが、見えない世界に重きをおきすぎると、現実逃避に繋がってしまうのではという思いがありました。
ですので、目に見えないものは全く否定しているわけではなかったですが、仕事も格闘技も現実的なことやった方が得だっていうのがありまして。
とりたてて優先順位は高くなかったですし、ましてやそれを仕事というか、自分の中心に置くっていうのは、あんまり考えていなかったですね。
平井:それでホメオパシーとの出会いから興味を持ち始めて、MRAとかの機器も知って。
それで七沢先生とお会いしてお話聞いた時は、いかがでしたか?最初からすごく納得がいきましたか。
阿蘇:個々の話は難しくて、全然理解できないことも多いですが、やっぱり自分の深い部分で、この道に間違いないという感覚もありました。
阿蘇:ホメオパシーやMRAなどの機器などもそうなんですけど、基本的に、海外から日本に輸入されているんですね。
ただ、精神性の部分で言えば、古神道など日本の古い教えを世界が必要としているというか、逆に海外に輸出する時代なんじゃないかなというふうに思っていまして。
そういう意味で、ぴったりのタイミングだったというか、「自分の理想としていたものがここにある」っていうのが、納得できたんですね。
平井:なるほど、なるほど。
それで七沢先生と出会って、すぐに七沢研究所に入られたのでしょうか。
どのような流れだったかもお聞かせいただけますか?
阿蘇:そうですね。
七沢先生と出会って、その研究内容が自分の興味の中心になりました。
ですが、当時はまさに縁がある一部の方のみしか入れない研究所でしたので事業をやるという感じではありませんでした。
自分が行っても仕事としては役に立てないかもしれないけど、すごく尊いというか、そういう感覚でした。
そんなこんなで、家庭の事情もあり江本さんの会社を辞めて、別の会社で仕事をするようになったんですよ。
そこで仕事をしている時、研究所から「ロゴストロンL」っていう装置の試作機を借りる機会があったんですよね。
そうしたらしたら、びっくりしたことに試作機を借りたその直後に、急にトラブルが発生して、その会社を離れざるおえない状況になりまして。
それで、その日のうちに研究所に転職が決まったんです。
この「ロゴストロンL」っていうのが、普及版のロゴストロンの装置だったので、誰かしら、これを広めていくスタッフが必要だったので、「これはぜひ自分がやりたい」と思っていたんですよね。
ただ、現実的には「今の仕事も良い待遇でさせていただいているし、子どももいるし・・・」みたいな感じで迷っていて、タイミングを見計らっていたところもあったんですけど。
それが、このロゴストロンLを持った瞬間に状況が一転したという体験でしたね。
「とほかみプロジェクト」が始まるきっかけとなったプログラム『ザ・ワープ』について、
阿蘇さんが目指す世界については後編で。
平井:今回のインタビューは『エクレル』『みえます』の読者様に阿蘇さんの事をもっと知っていただけたらな、という趣旨でお伺いできればと思っています。
まず、netenグループに入られる前は、どういったことをされてきたのでしょうか?