【エクレル講師座談会 vol.8】皆さんからのご質問にお答えしました(前編)

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好評をいただいているエクレル講師陣による座談会の第8弾をお届けします。

今回も大島さん、石原さん、阿蘇さんの3名で、
「とほかみえみため」に関する質問にお答えいただきました。

大島:皆さん、こんにちは。大島英明です。
今回も、石原さん、阿蘇さんとともに、皆さんのご質問にお答えしたいと思います。
それでは、最初のご質問です。

より具体的に実現させるためには、イメージを強く持って唱えたほうが良いのでしょうか?
また、自身の願いよりも、他者のことを想った願いのほうが実現しやすいのでしょうか?

大島:ということなんですが、阿蘇さん、いかがでしょう。

阿蘇:「本当に叶ってくれ!」というような強い願望の感情がくっついていたりすると、重たくなって願いは叶えにくいっていうところがあるんですよね。
一方で他者の祈りとして願った方が実現しやすいということがあります。
それは、他者のことは客観的に見えて、自分自身が執着していないから叶いやすいということがあるんです。
しかし、他者の願いであっても、その想いに重い感情が付いていたり、執着が強いと叶いにくくなります。
なので、一つのポイントとしては、客観的に見て、自分の感情や執着を一度外した上で、言霊を発するっていうのが大切かと思います。

大島:そうですよね。
イメージとかはあえてしなくても良いってことですよね。

阿蘇:はい、イメージはしなくて良いですね。

大島:イメージ使った時点で、自力と言いますか、自分の念であるとか、欲であるとか、その辺が動いてしまいますよね。
そうすると非常に重たくなってしまう部分があるので、むしろ、何も考えていない、無心のときに一番効果があるということは、いつもお伝えしている通りです。
やはり、他人のことといっても、身内や親しい人だとどうしても情が入ってしまいます。
例えば、病気のご両親を楽にしてあげたいとかですね。
だから、そういうときこそ、その情緒を外していくっていうのが重要になっていきます。
それで、外す上でも「とほかみえみため」を唱え続けていると、だんだん無心になっていくので、その辺りから効果が出てくるかなという感じがします。
石原さん、このテーマについてはどうですか。

石原:そうですね。
そのときに唱えながら、自分自身を感じていくことも大事だと思います。
特に、感情マスタープログラムに取り組んでいる人は分かると思いますが、感情と身体は連動するので、自分のことであれ他人のことであれ、思った瞬間、すごく力んでいるときって分かると思うんですよね。
身体の色々な場所に緊張が走っていたりとか、焦る感じで胸の辺りがチリチリしたり。
それらに気付いたなら、気付きながら「とほかみえみため」を唱えると、どんどん軽くなっていく様子が分かるはずです。
そういうところで、先程の大島さんの言葉にもあるように、他者のことであっても、あまり力が入りすぎると、結果として、それはそれで濁りになってしまうんですよね。
ですので、そういうところに気をつけたらいいかなと感じます。

大島:ありがとうございます。
それでは次のご質問に移りたいと思います。

「とほかみえみため」に依存しているように感じるときがありますが、どのように向き合えば良いでしょうか?

大島:というご質問です。
こちらは、阿蘇さんいかがですか。

阿蘇:「とほかみえみため」を普段から常に唱えているっていうことを、「依存」として捉えるかどうかっていうところもあると思います。
依存となると、「それがなきゃ生きていけない」っていうことですよね。
ですけれども、「とほかみえみため」って結局は、ご先祖や神々に対する感謝であったり、特別なことを言っているわけではありません。
生きている命、生かされている命に対して、、毎日感謝して最大限に力を発揮させるというところです。

逆に依存している状態は、「とほかみえみためがないと生きていけない」とか、「とほかみえみためがないと何かを成し遂げられない」という、少々おまじないのような感覚になっているのかもしれないですよね。
その捉え方を少し変えて、「自分の本来の命を輝かせる」というところの視点に立っていただくと、それ以上でもそれ以下でもないような視点が見えてくるんじゃないかなと思います。

大島:依存っていうと悪いイメージですが、信頼であるとか、そこに委ねている感覚であるとか、そういう形なら問題ないわけです。
もともと「とほかみえみため」っていうのは、まずご先祖さまにつながって、そこからいわゆる五行であるとか、僕らが国津神、天津神と言っている、より本質の世界のつながっていく言霊なんです。
そして、それは結局、自分につながるということになります。
「とほかみえみため」っていう道具は使っていますけれど、最後に頼るのは自分自身の本質であったり、あるいは、一如となった神の働きであったりっていうことなので、逆に、自立への道だと思うんですよね。
本質を掴んでいけば。
ですから、最初は、おまじないみたいに唱えているような気分になるかもしれないんですが、続けていただくと、より本質的な部分でつながっていきますので、今のような「なんか依存しちゃって大丈夫かな?」みたいな感覚は消えていくんじゃないかなという気はしますけどね。

石原:エクレルの記事でも、何度か「階層」という言葉が出ているかと思います。
皆さんも学び始めているので、それも踏まえてお話しさせていただきます。
本質とは、要するに源に帰ると言いますか、遠津御祖神という自分のルーツに帰ることなんです。
そうすると、何が起きるかということを理解して唱えるといいのかなって感じがしています。
つまり、「呪文的に唱えれば、何か叶う」というのではなくて、「大元に帰ると、豊かな創造が生まれる」っていう感覚です。
すべてを創造する源が「とほかみえみため」のエネルギーなので、それを感じると、例えば具体的な行動に出るとか、その前に、今、自分がやる仕事や、やるべきことは何だろうっていう、そのアイデアが出てくるとか、心の中の言葉が非常に豊かになってくると思うんですよね。

逆に、依存していると、「とほかみえみためで何か叶っちゃうんじゃないか」っていうところで、思考停止が起きてしまい、創造が起きないということがあります。
では創造を起こすにはどうしたらいいかと言ったら、みんなが幸せになることを考えながら、ちゃんと「とほかみえみため」を唱えるっていうところなんですよね。
自分に霊能の力がほしいとか、自分の願望だけ叶えばいいっていう期待感で唱えてしまうと、思考停止してしまいます。
このご質問も良いご質問ですよね。
そこに気付いたということが、まずすごく良いということと、唱えている自分のあり様が問われるという段階に入れたっていうことですよね。
その辺も考えながら唱えられるといより良いかなと感じます。

阿蘇:少し付け加えると、欲との向き合い方にも関係しているのかなと思います。
動物霊を憑依させるということも聞きますよね。
自分の欲を満たすために、動物のある特徴を自分に取り入れるような方法です。
だんだん、それがないと自分の目標は達成できないんじゃないかとかいうふうになってくるわけで。
でも動物は存在しているだけで良いも悪いもなくて、結局自分の欲の問題っていうところが実はあると思うんです。
「欲を限る」というふうに七沢先生もよくおっしゃいますけども、今、自分がどこまで行けば満足するかを確認して、その上で「霊」ではなくて、「とほかみえみため」で「神」とつながるということですね。
結局、自分自身の中にすべて持っているんだっていう意識が大切です。
欠乏感から生じる欲となると、「何かに依存しないと、何かの力を借りないと自分はいけない」っていうことになってしまうので、「自分はすべて生み出せる側なんだ」っていう概念を持っていただいたら良いんじゃないかなと思います。

大島:ありがとうございます。
次回もこれらに関連するご質問にお答えしていきます。


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