皆さん、こんにちは。
浅子雄一郎です。
皆さんは、
「とほかみえみため」を唱えていて、
特別な体験をしたことはありますか?
瞑想の世界では、
意識が拡大したり、光を見たりといった
神秘的な体験をして、
「またあの体験を味わいたい!」
と執着してしまったり、
自分は特別な存在であるという観念に
囚われてしまうということがあります。
執着から離れていくはずの瞑想なのに、
これでは、本末転倒ですよね。
このような「特別感」は「慢心」となり、
道を歩むことの妨げとなることがあります。
私には、この「特別感」に苦しんだ
とある経験があります。
それは、
小学校4年生のときです。
何かの授業中だったと思いますが、
クラスメイトをニックネームで呼び合おう
ということになって、
先生から、突然このように言われました。
「浅子君は勉強もスポーツもできるから、
『出木杉くん』というのはどうかな!」
あの、ドラえもんのキャラクターですね。
勉強やスポーツが得意などとは
まったく思っていなかったため、
そのあだ名に面食らうとともに、
あまり良い気持ちがしませんでした。
ところが、それをきっかけに周囲から
「出木杉くん」「出木杉くん」
と呼ばれるようになったのです。
はじめは、そのたびに
「出木杉じゃないよ~」と
抵抗していたのですが、
その「出木杉くん」が、
だんだんとプレッシャーとなって
のしかかってきます。
そんな中、ある授業で
先生から指された問題に
答えられなかったことがありました。
そのとき、周りから
「出木杉くんなのに」
「出木杉くんでも答えられなかった」
というヒソヒソ声が、
聞こえてきたんですね。
それが心のどこかに、
グサっと刺さったようで・・
それからというもの、
先生から指されることが
極端に怖くなりました。
授業中に何度も心臓がドキドキしたり、
指されて答えられないと、
顔がカーッと熱くなったり、
冷や汗が止まらなくなったり。
周りから特別扱いを受け続けるうち、
気が付けばそれに囚われるようになって、
「出木杉くん」のイメージが壊れる瞬間を
極度に恐れるようになっていたのです。
このとき、「特別感=苦しい」
という図式が出来上がりました。
やがて瞑想をするようになったのも、
この苦しみの根源にあった「特別感」
あるいは「自我」といったものから
解放されたい!という動機があったと
思います。
「とほかみえみため」
そして白川伯王家伝承の祓詞、鎮魂で
一番変わったことは何かと聞かれれば、
それは、この「特別感」というものが
完全に消え失せてしまったことである、
と答えるでしょう。
あらゆる神々、
そして宇宙(公)とダイレクトにつながる
「とほかみえみため」で、ひとたび宇宙と
いう全体性につながってしまえば、
そこに個人的な「特別感」というものは
存在できません。
「悟り(さとり)」とは、
「差(さ)」が「取(と)れる」
ことであるともいわれます。
全体性とつながることで、
特別感から生じる「差」(自他を比べる
こと)や「分離感」が取れていき、
やがて、これらから生じる苦しみも
なくなるのです。
そのようにして、
瞬間瞬間こそが特別なものであることに、
意識が開かれていきます。
「とほかみえみため」を唱えていて
特別な体験がなかったとしても、
それは全体性につながり、
「差」が取れてきていることの証として、
安心して唱えていただきたいと思います。
特別感ゆえに
苦しんでいる人がいたり、
または逆に特別感を渇望していたり、
特別感ゆえに
感情的になっている人と出会ったら、
心の中で「とほかみえみため」を唱えて、
相手の苦しみの出所を溶かしてあげる
という心の余裕を持ちたいですね^^